瞑想-鈴木大拙館
- Kiyoshi

- 1月26日
- 読了時間: 3分
更新日:1月27日
金沢が生んだ世界的な仏教哲学者鈴木大拙。その彼の足跡と思索を辿る事が出来る「鈴木大拙館」が、21世紀美術館の近く、金沢市本田町にある。
何度か訪れたことがある。金沢は、欧米、特に欧州、ヨーロッパから訪れる人が多いと聞く。彼らが、深い興味を持って訪れるのが、この「鈴木大拙館」なのである。
鈴木大拙は、幾度となく、欧米を訪れ、「禅」や「東洋的なもの」についての講演を行い、何冊もの本を出版した。これらの大拙の言葉は、神を主とするキリスト教的な教えと二元的な考え方を基盤に持つ欧州の人々にとっては、とても衝撃的で、新鮮なものだったに違いない。大拙が語る禅とは、神ではなく、自分と向き合い、考える事では無く、ただ感じる事だと説いたのである。そうして、最終的に得られる「悟りの境地」とは、何も考えない「無の空間」であり、世界の中に居て、何かと繋がっていると感じる、宇宙と繋がっている空間。その中に自分が居ると自覚することが、悟りであり、一番肝心な事だと説いたのである。
何だかとても難しい事を言っている様に感じるかもしれないけれど、僕には、すんなりと入って来る。余計なことを考えるのはやめて、ただ感じる事に徹しなさいと言う事で、それは絵を生み出す上で、また人が、絵を鑑賞する上で、一番重要な事だと思っている。
自分が居て、自分とは違った力が働いていると感じる事が、謂わば、霊的なもので、宗教的と言えるかもしれないが、自分が本能的に感じるものなのである。
何かの力が働いている。そう感じて絵を描く事が大切で、自分と言う枠を超えなければならない。マティスやピカソは、そう言った感覚を持ちながら絵を描いた。絵を鑑賞する際にも、絵が上手いとか、この絵の意図は何処にあるのかとか、色々なことを考えずに、ただ絵を観て、感じる。それに徹せよと、大拙は言っているのだと思う。美術的な美しさ、それが一面には有る訳だが、感じると言う観賞法は、絵が持つ空間、霊的な何かに触れると言う事だと思う。
僕が考えるアート、生み出そうとしているものは、自分の枠組みを超えた何かだ。何かを孕んだ空間。それは、自分以外の何かの力が働かなければ、出現しない。絵は、空からやって来て、心の一番静かな場所に舞い降りる。
アートは、日常の中から生み出されるもので、生きている事を自覚させる表現手段だと思う。そして、それは空間だ。
大拙は、言葉で表現する事が不可能な空間を、専門家ばかりでなく、ごく普通の一般の人にも分かりやすい言葉、例え話で、浮彫にしたのである。
鈴木大拙館で見た、大拙の晩年の写真は、小さな子供の様な、あどけなさと、老練な、何かを悟った静かな心持ちを同時に感じさせる。
鈴木大拙館には、思索空間と呼ばれる所がある。水鏡の庭を眺め、思索すると言うのだろうが、大拙の言葉を借りれば、何も考えず、ただ感じる空間だと思う。この女性二人は、何を思っているだろうか?心は、座っている椅子に映る彼女たちの影で表現されている。
「今夜は、何を食べようかしら?」と思っているかもしれない。でも美味しそうと感じている彼女達の心の有り様が、禅が指し示す空間に通じているのかもしれない。
川崎貴代美氏によるフレーミングは、絵の中の彼女達が観ている枠組みを、また鑑賞者が、木の額縁の枠組みから観ると言う二重構造を作り出している。二重のマットには、隙間が施されていて、空間を強く感じさせている。






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